2010_04_14_[WED]

シリーズ【現代芸能】妹島和世を作ろう!考察
いつものように多くの「お笑い批評ブローガー」とは全く違う角度からエッジを立てて【古典演芸】と違い屋号を受け継がない【現代芸能】を観測。
今回の、
後半はソレ系の界隈に興味の無い人には何がリアルで暗喩なのか皮肉なのかもサッパリ意味不明な文章になります。
2010年「プリツカー賞」を取った女性建築家の見えにくい偉業を「ジェンダー」で界隈を眺めながら、
若手時代の記事から今に繋がる【妹島和世】を眺める
という他の評論ではあまり無い切り口の考察エントリー。
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01見出し---
◆【妹島和世】=(柳原可奈子+ウメ*0.3)/1.3+基地
- ▼【妹島和世】さんを記号化すれば、
- ▼ベースの【柳原可奈子】さんを用意しよう。
- ▼エッセンスに【ウメ】さんを加えて調整します。
- ▼世界で戦う宣伝、発信基地を作り完成です。
◆【ネット】という媒体は「界隈デバイド」を抉じ開ける
- ▼そして今はネットがあるから
- ▼まぁこの界隈の好きな人って、
- ▼もちろん、【ネット】媒体の反作用として
---02見出し---
◆記号になった女性建築家【妹島和世】
- ▼算数に興味のないオイちゃん達が、
- ▼女性建築家として世界で2人目、
- ▼今回、受賞した【妹島和世】さんは、
- ▼おそらく、日本の女性建築家で、
- ▼もちろん、「弟子っ子」時代や独立当初なら
- ▼しかも、この界隈の技術は日進月歩だから
◆妹島和世の原風景をBack to the Future?
- ▼若手建築家と言われていた時期から、
- ▼【妹島和世】さんが若手建築家時代の記事を
- ▼【再春館の女子寮】での東西に分かれた部屋を、中央の大スパンのリピングルームを挟む大胆な空間構成にした設計時の構造や設備の面での工夫について。
- ▼若手時代の【妹島和世】さんはプラン、設備、構造などについては矢継ぎ早に語り出すがデザインについては多くを語らない。その建築思想的な骨格が固まる前段階である事も何か不思議な魅力を生み出していた。
- ▼若手時代の【妹島和世】さんの設計スタイルや所風などを端的に切り込んだ記事からも現在とつながっていく様々なモノが見えてくる。
◆勝者「妹島和世」と無数の敗者デバイド
- ▼若手TOP集団だったと言うことは、
- ▼あえて名前は挙げないけども、
- ▼古びた過去の藝評雑誌とは?
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◆記号になった女性建築家【妹島和世】
▼
算数に興味のないオイちゃん達が、
数学界の「フィールズ賞」が誰がとろうと大して興味もないし、
「ポアンカレ」って美味しいの?と尋ねてしまうのと同じくらい、
建築界の最高賞である2010年
「プリツカー賞」を日本の女性建築家が取ったことの凄い偉業感覚は、
この界隈に興味がある人しかわからないのだろうなぁ。
というのがオモロだ。
そして
コノ界隈に興味がない人達には全く見えない「ジェンダー」という忌避なるキーワード。

当然ジェンダーというモノは表向き、この界隈的においても関係ない事になっているが、果たして本当に日本でそれを信じている人がいるのか、わからないけども
リアルとして
女性建築家さんがスピーカーとして出演している講演なんかを聞きに行くと
「現場で職人にナメられない様にする手法」などを面白く語って笑いを取ったり
≪一種の界隈的ジェンダー芸?≫などというパターンを見かけることが、それを証明しているわけで
だからこそ、この受賞というのは若手時代から常にTOP集団にいた【妹島和世】さんが取ったという事よりも
界隈的には、
ついに「日本の女性建築家」が取った。と言う事の方が意味がでかくて、
街の小さな設計所で「界隈的ジェンダー芸」が毎日繰り広げられる【妹島和世】さんとは違う世界で生きてる
多くの「女性建築士」達の
代表選手がメダルを取った!的な興奮があるだろうなぁと推察するのは簡単だ。
▼
女性建築家として世界で2人目、
モチロン日本の女性建築家では初めて、
「プリツカー賞」を取った【妹島和世】さん。
日本国民の99.999%を占める、この界隈に興味がない人にわかりすく説明すると
つまり【妹島和世】という建築家が、
芸術大学の建築学科で習う「日本近代建築史」という厚めの教科書に、「日本の女性建築家で初めてプリツカー賞を取った」というタグ付けされて
「学期末テストに出る人になった」という事。
そう、十年先、五十年先も。
業績と共に記載され続ける事を意味する。
世界の文脈に「モダン」「ピュアモダン」という流れで
【妹島和世】が記号になった。という事だ。
▼
今回、受賞した【妹島和世】さんは、
日本国民の99.99%以上はハジメテ聞く名前だろうけども、界隈的には浮遊感あふれるデザインでおなじみの
伊東豊雄建築設計事務所出身な【妹島和世】さんという建物をデザイン設計したりする人は≪構造と違うのがポイント≫、
なんかマグレで「金獅子賞」≪取れんけど≫の流れで「プリツカー賞」とかいうお菓子みたいな名前の賞を取ったとかではなくて、
わかりやすく喩えて言うなら
「国際科学オリンピック」に出ていたような子供が、数十年後に本当に「ノーベル賞」を取った。という
界隈的には、
「取るべく人が、本当に取った。」
▼
おそらく、日本の女性建築家で、
取るとしたら2000年以降の勢いだと【妹島和世】さんの製作グループが抜けてくるわけだけど、
心の奥底では「ジェンダー・デバイド」をなかなか超えられないこの界隈で共同とはいえ、まさかマジで取ったんだ?
という驚きの感じなんだろうなぁと。
もちろん、存在しては駄目なのだから建築学科の教科書には載っていないし、
表層上は「ジェンダー・デバイド」なんてのは無い事になってるから、あまり公では触れられないけども、
でもリアルとして【料理界】と同じで「業界所属男女比」以上に、この界隈では賞を取ったりするTOPが殆ど男性であるリアルはタブーなわけで。
≪
だからこそ女性芸術家達が座談会等で面白く語る電波に乗らない「ジェンダー・デバイド話」は笑いを生む≫
口には出さないけども
「なんとなく女性の飛行機パイロットだったら不安だったり」とかと言うのと同じで
重大な瑕疵である根拠もないのに、大きな金額が動くコノ界隈にも現場の空気感があって
大きなプロジェクト規模でどうかはわかんないけども、少なくとも
個人への建売りのレベルとかだと不動産営業マンをしてるオイちゃんへリアルに
「女性の設計さんで大丈夫?」的なのはあったりしたわけです。表立っては言いませんけどね。
▼
もちろん、「弟子っ子」時代や独立当初なら
まだしも現在の【妹島和世】さんのようなビックネームの建築家を抱えているチームとしての組織形態では
現場処理もスタッフが行うだろうから設計に専念出来る環境だとしても
ただ大多数を占める、リアルな世界として設計士さんがコミュニケートするのはクライアントである施主さんだけではなくて、工程表に基づいて
家を作る現場の職人さんを販売の営業職と一緒にコントロールしないといけないわけです。
また建築士として独立し営業職が無い小規模の設計事務所なんかの場合は、公官庁のコンペ物件とかでなく個人施主で請け負った時なんかは
本来営業マンが行うクライアントと職人との間のクッションが無い状態で二正面でガッチリ向き合って目的地まで
タクトを振ることになり、
現場では職人になめられたら細かい部分で手を抜かれるかもしれないし、強く出すぎると少しの無理も通らなくなってくる。
施主の希望と自分のプランの実現とのせめぎ合いも絡み合いながら、
常に予算とニラメッコで利益確保で積算する「設計能力」以外に、この微妙な現場との「パドリング能力」も必要で
ココを男女関係なく渡って行かねばならぬリアルな世界。
▼
しかも、この界隈の技術は日進月歩だから
常に新しい施工技術や設備に新建材等の学習が必要で、
「ツーバイフォー」での間仕切りの心配が最重要な社内設計士ではなくて、コンペで勝ち抜き界隈誌でカバーを飾り
TOPを走り続ける建築士であるためには、同業ライバルたちの作品研究も常にやっておかなくちゃいけないだろうし
設計事務所もハンパない数が存在し、
ゴルフのように女性は前から打てるというルールなども当然なくて
男女関係なくその中を勝ち抜いていくという壮絶なリアル。
まぁ、そういう世界であり、ヘレン・ケラーとは言わないけども
そういう見えない部分も含めてだから、
界隈好き人的には
一般的に感じる以上に女性建築家の【妹島和世】さんが「プリツカー賞」まで登りつめていく事が「偉業」
だったりするわけです。
と言うような感じで
一般的な評論とは切り口を変えて
記号になった【妹島和世】さんを考察していこう。
◆妹島和世の原風景をBack to the Future?
▼
若手建築家と言われていた時期から、
オイちゃんも見に行った【再春館の女子寮】≪外周りだけなのに見に行ったな≫とかの時代には、【隈研吾】さんの「M2」≪色んな評価があったけども≫と同じくらい
話題になって
界隈的には突出した空間センスから業界誌に度々取り上げられていた有名人≪日本の女性建築家特集をすると必ず入ってくる人≫だったりしてて

界隈誌に高い評価と共に
妹島先生の朴訥なインタビューが、よく出てたから読んでた人もいるだろう。
ちなみに、オイちゃんは妹島先生が若手時代の建築評論誌で
あんな感じの風貌や作風でジブリ風アニメ≪特に「未来少年コナン」とか≫好きに見えてたのに妹島先生は
「小さい頃からテレビやビデオをあまり好きじゃない。」と、あっさり答えていたのを
≪リアルタイムじゃなく周回遅れで読んだ≫
「え?ソレなのにあんな感じ?」って意外だったのでよく覚えてる。
▼
【妹島和世】さんが若手建築家時代の記事を
幾つか引用≪若手時代の記事というのは、どんな芸術家も真っ直ぐなエネルギーがみなぎっていてオモロだ≫
すると色んなモノが改めて見えてきて興味深い。

とりあえずNHKの新日曜美術館にも出てきた「金沢21世紀美術館」など最近の洗練された作風のヤツじゃなくて
「SANAA」で記号化し発信する前の【妹島和世】さんの原点。
【妹島和世】さんでいう
プラットフォーム1と2が終わって【再春館の女子寮】の時代の頃に受けた数本のインタビュー記事。の中でも
結構、ズバッと短く切り込んでいる
18年前の「NlKKEI-ARCHITECTURE、1992年9月28日号」を評論の従として一部引用しながら
Back to the Futureで【妹島和世】さんの原点を覗いていきます。
【再春館の女子寮】終り時代の日経アーキのインタビュー記事では最初に設計思想で後に、具体的な内容に入っていきます。
▼
【再春館の女子寮】での東西に分かれた部屋を、
中央の大スパンのリピングルームを挟む大胆な空間構成にした設計時の構造や設備の面での工夫について。
構造や設備設計者にとっては、どんな点が大変だったのですか。
中央に大空間をとったことは、やはり大きな影響があったのでしょうか。
基本的には、何で支えていくか、だったと思います。
初めはシャフトが低かったのですが、それを伸ばして大きな柱と考えたらどうでしょうか、
と言いましたら、それでいこうということになりまして。
それは結果的に、設備の計画としてもうまくいきました。
構造はラーメンですか、それとも壁式ですか。
1階はコンクリートの壁式ラーメンです。
東西が二つに離れていまして、その上に鉄骨が組まれて一つのボリュームがつくられています。
1階がRCになっているのは、下を重くしてそれぞれの動きの違いをなるべく抑えようとしているからです。
RCの長手方向の小口に、4本のスチールの梁を流し、
2階はどこにでも柱を建てられるように考えています。
丸柱は、荷重と風圧のみを受けるものと考え、
全体の横力は、設備のコアでもある等間隔に建てられた5本のシャフトが受けています。
下はしっかり建てておいて、上を比較的フリーにできるようにしているわけです。
妹島さんの建物は構造家泣かせじゃないかと思っていたのですが、そうでもないのですね。
泣かせていないと思います。ただ、何度も何度も色々な案について構造的な話を聞きながら進めるので、そういう意味では迷惑をおかけしています。
設備はいかがですか。
設備もだいたい同じです。
構造と同時に進めていきましたから。
その都度、こちらの空間構成に対しての設備計画の提案をいただいています。
再春館の場合は、基本的にワンルームなので、全体的には5本のシャフトで賄い、あとは個別に併用しています。
それは、空調計画、照明計画、また雨水の排水、水回りやコンセントの位置など、すべてそうなっています。
その後の住み手からの反響などは届いているのでしょうか。
クライアントからはお聞きしていますが、寮に実際に住んでいる女の子からは、直接はありません。
ただ、テレビのインタビューを見たことがあります。
4人部屋はいやだとか、集団で生活するのも面白いとか……。色々な感想を言っていましたね。
色々、興味深いんだけども「コレで」ってラフの図面渡してお弟子さんや構造家が頭を抱えながらというパターンではなくて
オモテから見える
構造家泣かせ的なフォルムもちゃんと
初期の頃から共同の事前打ち合わせでクリアさせてたんだなぁ。とかスタンスの原点が伺えます。
あとは、あんまり「TV」を見ないと言われてた妹島先生も流石に自分が作った作品のテレビインタビューは見られるんだなぁとかも。
ちなみに界隈に興味が無い人の為に言うと「ラーメン」は食べる方ではなくて、どちらかと言うと「小林賢太郎」さんの方です。
▼
若手時代の【妹島和世】さんはプラン、設備、構造などについては矢継ぎ早に語り出すがデザインについては多くを語らない。
当時は、その建築思想的な骨格が固まる前段階である事も何か不思議な魅力を生み出していた。
最近の若手建築家の作品では、隈研吾さんの「M2」、それと妹島さんの「再春館製薬女子寮」が一番の話題だったと思います。これまでは、シャープな形を感覚的に表現される方だと思っていたのですが、建築専門誌の記事などを読むと、意外に論理的な内容を書かれているので驚きました。周囲の方からもっと抽象的な、デザイン論的な話を書くのではないかと思っていた」、などと言われたことはありますか。
そうですね、どうなんでしよう……。
妹島さんは、ことデザインが話題になると急に口が重くなりますね。
そうですね。そもそも、自分はこういう空間をつくるのだ、といったような、あらかじめあるイメージから設計を始めるわけではないので……。
最近は、建物をつくる時に何をどう組み立てていくか、といった決まりごとがはっきり分からないと思うのです。
学校に例えて言えば、昔なら職員室はここ、教室と廊下はこうつながる、といったことがあらかじめ分かっていましたよね。
でも、最近はそういったことが、いい意味でも悪い意味でもはっきりしない。
色々な与条件を考えているうちに、様々な発想が浮かんでくるし、そういうことからアイデアを生み出すことに興味があります。
初期の作品であるプラットフォームⅠとⅡ、それに再春館製薬女子寮は、色々なメディアに取り上げられていますよね。
どのような人が、どういった感想を述べられていますか。
どういう人ということはないですけれども……。
プラットフォームから再春館は、やはり方向が違ってきたと言われることが割と多いですね。
プラットフォームにせよ、再春館にせよ色々と話題になるのは、妹島さんは次代を切り開く建築家の1人である、と期待をもたれているからだと思うのですが。
はあ……。
また、口が重くなられた。
ええ……、そうかもしれません。
この初期の【妹島和世】さんが語るデザイン構成に関する手法論は、公開ワークショップ等で語る現在に繋げて考察していくと、
とても興味深くて
もちろん初期の【妹島和世】さんと違い経験を積み上げ建築思想的な骨格が固まっている現在では、
妹島建築を象徴するデザインに関して、
いわゆる先生を象徴する「妹島節」で明確に「妹島的手法」を順序立てて語るが
実は、初期の頃の記事を読むと語彙や自信のなさが口ごもらせているだけで言おうとしていること、
練り上げて行く過程で着地点を探っていく
妹島先生のコアなデザイン構成思想や手法が変化していない事に気づく。
近づけていくと普通の「りんご」になってしまう。
「じゃがいも」ライン等、界隈的な「妹島節」は未だ健在である。
▼
若手時代の【妹島和世】さんの設計スタイルや所風などを端的に切り込んだ記事からも
現在とつながっていく様々なモノが見えてくる。
設計は妹島さんがワンマンでやるのですか。
そうではないです。もちろん最終決定は私がしますが、皆で一緒につくっていくのが基本的な姿勢です。
今つくっている建築でも、どのようなことが可能であるかアイデアを皆で出していく。
それから、「これは違う」とか、「こちらがいい」とか、皆で話し合いながら選択しています。
プランもデザインも、同じような感じで詰めていくのですか。
デザインに関する議論はほとんどやりません。
使い方とプランと空間構成がどのようになるか、一つひとつの案について非常にラフなプランと模型とを、とにかく数多くつくります。
こういった作業の過程を通して、その計画に対して何を問題にしたらよいかを発見していきますよね。
そのなかで、一番よいだろう、と思われる解答を探しているという感じです。
解答というのは、つまり、使い方とプランとその空間構成がぴったり一致したと思える案なのですが。
そういう作業がだんだん絞られてきて、ある段階から設備計画も考慮に入れながら最終案が決まっていきます。
そこから先は、具体的な形や材料などを、割と気楽に決めていきます。
アトリエ事務所の場合は、そこのやり方なり雰囲気なりを所長が決めてしまうことが多いですよね。妹島さんの事務所では、どういった「所風」をおもちでしょうか。
今でこそみんなで5人になりましたけれども、再春館を始めたころは3人でしょう。
まだ前提というのがないのです。
そういう意味では、所風などといったものはまだ固まっていません。
ですから、色々組み立てていく打ち合わせのなかで、どんどん変化していきますし。
スタッフがいい案を出せば、妹島さんもそれを認めると--。
いいと思ったら、そのまま通すこともあります。
その案自体がまとまったものでない場合でも、何か可能性を感じれば、それが何なのかをもう一度考え直して、案をまとめ直してみたりします。
皆で議論し合って、何かを認識していく度に、そこで色々なものを決定していくとでもいうか……。
それが流儀といえば流儀なのかもしれませんね。
初期の【妹島和世】さんの設計スタイルについても、非常に興味深いインタビューになっていて
「決定者」である妹島先生とスタッフとの役割を明確にしているといった
現在においても、よく記事で読む妹島先生のスタイルが変わっていない事がよくわかります。
実は「SANAA」での設計スタイル関連記事を読んでいると何となくのイメージと違い妹島先生はスタッフの使い方が上手いなぁ。
と感じる点が幾つもあって、
理由まで切り込んだ記事が無いので
御自身が「弟子っ子」の時に、もし自分が「決定者」になった時はこうしよう。とか原体験での作用なのかなぁ?
と勝手に推察して読んでいた。
あと、当時この記事で驚いたのがプランから「デザイン先行」で、それに空間構成を乗せてきている≪だからチョット変わった構成だと解釈していた≫
と思っていた妹島建築が、
実は、
プランから空間構成を切ってきて、最後にデザインを合わせてくる。という固いヤリ方だったという事実を知って
妹島建築に対する見方も変わったり。
若き【妹島和世】さんのインタビュー記事を読んでわかるように
若手時代から界隈誌では高評価され、界隈的に女性建築家としてTOP集団に入っていた。
そう、全てには原因があり結果がある。
【妹島和世】過去からの現像もオモロだ。
◆勝者「妹島和世」と無数の敗者デバイド
▼
若手TOP集団だったと言うことは、
つまり【妹島和世】さん以外にも当時、名前がよく界隈的に挙がっていた人達がいたという事で、
団子状態から数十年、
誰が勝ち、誰かは消えていく。それがリアル。
「金獅子賞」から「プリツカー賞」という栄光のスポットライトが【妹島和世】さんに当たり、
もちろん「プリツカー賞」で建築家としての終りでないけども権威としての「プリツカー賞」というのは、
その界隈では普通の人が思う以上に重い。
過去の受賞者が「丹下健三」さん「槇文彦」さん「安藤忠雄」さんで、【妹島和世】さん達だ。
その界隈的には日本の女性建築家として「日本の建築史」に一生、名前が残る事になった。
▼
あえて名前は挙げないけども、
実際に【妹島和世】さんが、その界隈では若手TOP集団だった時代に、界隈で毎年開催される新人賞や奨励賞、敢闘賞等々
【妹島和世】さんと同じかソレ以上に評価され未来を嘱望されていたている男性だけでなく女性建築家もいたが、
≪妹島世代の5、6人スグに浮かぶ貴方は界隈好き人です。≫
何処の世界でもある競争が、古い建築評雑誌で未来を信じ力強いインタービューを受ける「あえて名前は挙げない」彼ら彼女らへ数十年単位で起こり、
誰もが負けない為、勝ち残るために様々な試みを繰り返し
五年でTOP集団から消え街の建築屋さん、大学客員教授、地方の張付き設計士となった若き建築家。
十年はTOP集団として持ったがそれ以降は激しいコンペを勝ち抜けず建築誌に現れなかった若き建築家。
あれから数十年。何処の世界でも同じく勝者がいて、多くのその他がいる。
何が正解なのか?それはよく分からないけども
結論として、あの頃からの壮絶な生存競争を生き抜く若き建築家レースで海外でも戦うエッジを意識し続けた【妹島和世】さんの
SANAA発信力が勝ったのだ。
▼
古びた過去の藝評雑誌とは?
界隈的なメジャーシーンにあまり現れなくなった若き彼ら彼女らに出会うとこで
芸大で習わない
「勝ち残るのは他人が倒れて自分が生き残ることである」という、リアルの厳しさも伝えてくれる。
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