2010_03_02_[TUE]
シリーズ【現代芸能】売れ理論考察
いつものように多くの「お笑い批評ブローガー」とは全く違う角度からエッジを立てて【古典演芸】と違い屋号を受け継がない【現代芸能】を観測。
今回は、洋画家「長谷川利行」から【現代芸能】の類似性を指摘しそのアルゴリズムを「ムラカミ」理論で回避が可能か?という理論援用した考察エントリー。
専門用語は、なるべく外しガッシリと噛み砕いていますが細部の説明は端折るのでソレ系の界隈に興味のある人にしか全く意味不明な箇所の多い文章です。
「芸術活動」と「売れ」の関連性などをマクロ的な観点から絡ませながら【現代芸能】を適度に考察。
PS:最近の
「エフエム芸術道場」のPODのvol436--450で
若手の批評家≪黒瀬陽平さんと濱野智史さん≫と「村上隆」さんが美術界をPOPに語り合う傑作な回があるのだけども、
それがね村上さんが若手をイナしながら突っ込む構図が、まるでディプロマやプレゼン時の学生と教授のカラミみたいでオモロくて久々にPCの前で笑いっぱなしだった。
こういう新鋭の批評家との対談はまたやって欲しいなぁ。
興味がある人は消えないうちに是非。
---見出し---
- ◆「長谷川利行」アルゴリズム
- ◆「村上隆」総論--「芸」で食む者は世界を記号化せよ
- ◆村上理論00--徹夜なんて努力のうちに入りません
- ◆村上理論01--現代の芸術作品は集団でやるべきだ
- ◆村上理論02--芸術家は技術よりも発想に力を注ぐべき
- ◆村上理論03--価値を生むのは才能よりサブタイトル
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◆「長谷川利行」アルゴリズム
作品を公募展に出しては、もれなく落選返却通知がプレゼントされ続けたり、二つ目の大学が芸大≪中退≫だったという人生の記憶から消し去った黒歴史や、
過去に付き合った女の子が芸大出やアート演劇好きなどが多かったために
十代から京都の新人展は年中行事に組み込まれ、アルカイック最後の安井賞97の鑑賞後、当時の彼女とサテンで若さ故のナンチャラで
『日本画壇の大いなる過失』と嘆き、
二人が大好きだった【鴨居玲】を讃え合った夢、敗れる以前の黒歴史。

アウトローと呼ばれた画家―評伝長谷川利行
以前のエントリーでも書きましたが、オイちゃんの埋立てている脳内黒歴史ゾーンが【ウメ】さんを見て思ったのが
「うわっ、長谷川利行」
絵画やアートに関心がある人以外は【長谷川利行】自体を知らないと思いますが、
≪『
wikipedia』にも簡単な略歴が載っています≫
そういう界隈では結構知名度の高い芸術家です。
ザッと掻い摘んで言うと
『才能が有りながら生来の対人対応や自己演出ベタでチャンスを毎々つぶし野垂れ死、死後に再評価』という
詳しくは彼の評伝にあるように「ゴッホ」に喩えられたりする芸術家なんですが
対人対応や自己演出が苦手であっても下手に才能が備わっていると、公募展とか玄人ウケで入選とかしてしまい、
その才能が上手く社会に認められないという
現実とのギャップに益々苦しんでバーストしてしまった人なわけです。
このバースト現象に辿り着く定石ストーリーをオイちゃんは個人的に
「長谷川利行アルゴリズム」と呼ぶことにしています。
知っている人は知っていると思いますが、チョットおかしくなってしまうってのは
芸術の世界ではよくある現象です。
実際にオイちゃんも目にしたこともあるパターンとしては、
臨界点を超えられない芸術家見習い達は運がイイ人は青い閃光が走る前にある者は親元に戻ったりして会社で働き、
ある者はココを起点に結婚し公民館で日曜画家たちの絵画教室を開いたり、
それでもスパークを目指し被爆に耐えた大半の芸術家見習いも頑張りすぎてチョット精神が崩壊したりとかするわけです。
お笑い業界などとは比べ物にならない規模で毎年毎年毎年毎年、芸大に学んだ後に多くの死体が転がり続けます。
それがこの界隈。
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◆「村上隆」総論--「芸」で食む者は世界を記号化せよ
絵画や建築などの芸術、アートと言うのは普通、マーケティングや自己演出などという仕掛けと遠い世界だと思われがちだけど、
コノ分野こそが最も高度な交渉術が必要な分野であったりする
のをそういう関連の大学などに通って
書籍を読んだり、何故、あの芸術家は死後見いだされ売れたのか?何故、あの芸術家は生きながらにして売れたのか?
を文献などで追ってみたり、
中学や高校の教科書には載らない
ダリの側にマーケッターのガラが居なければ、あれほど早く売れ軌道に乗っていたか?そして矢継ぎ早に勢いが続いたか?
様々な決して安売りしない見事な自己演出が無ければピカソはキュピズムの雄になれたか?
ゴッホの親族が画商と繋がっていなければココまで果たして評価が上がったか?それよりも彼の作品は見いだされたか?
『芸術起業論』
それらのハテナも、「記号化の実践」≪【村上隆】さん自体はそれを
「価値を生むのは、才能よりサブタイトル」という言い回しをする。≫を高らかに歌舞く【村上隆】の出現で
空想頭と言う【お花畑】から抜け出し
身近にあるリアルな世界の現実を覗いて色々な事を気づいたりするわけです。
そして、子供の頃に信じていた
「才能がある芸術家は見いだされる」という定理が神話である事を知る。
サンタクロースを信じていた夢見がちな子供は大人になる。
売れる芸術家の理由は、「独創的な芸術」の才能?
マヤカシ。
つまり現実として、
「独創的な芸術」の才能なんていうのは売れるための必要条件であって十分条件ではない。
芸術の才能なんてのは大前提だ。
何故なら独創的な芸術の才能なんて溢れているから。
ただ見いだされない≪プレゼンできていない≫だけで独創性というのは案外、溢れている。
そして、そういう「サンタクロース」神話で飯を食っている【売れている芸術家】は本音を吐かない。
何故なら、そういう現実は自らの足を食べるタコになる事を知っているからだ。
なのに【村上隆】さんは、「サンタクロース」なんていないと言い切り、あらゆるインタビューを読むと自らの才能について否定的に語ることが多い。
≪もちろん書籍やインタビュー記事などでの自己否定は、高いレべルでの否定であり日曜画家と比べてと言っているのではないので注意。殆は、そのレべルまで到達できない。≫
その上で
【村上隆】さんは、自分自身の才能についてドウ答えるかを意訳すると
「芸術という構築された世界の仕組みを解く力とディコンストラクション能力」であり、
「芸」で食う者たちへ記号化した世界で歌舞く≪自己演出≫事の重要性を説く。
だからこそ【村上隆】という芸術家は本当に凄かったりする。
【村上隆】さんの個々の作品と絡めながら考察すると、他の人もやってるし長くなるし在りきたりだから「作品を通して【村上隆】のどこが今までの芸術家とドウ違うのか」は、また別のエントリーで噛み砕いて考察するとして
今回のエントリーは【村上隆】さんがインタビューや書籍で説く
「芸」で生き抜く理論を【現代芸能】に援用し当てはめてみる
と面白かったので論じてみたい。
おそらく、こうなる。
【現代芸人】が
売れるためには「必要条件」である【ネタの力】だけでは「十分条件」ではなく、「業界の構造」である【現代芸能】を知り、
「記号化」した後にその世界のルールに則り自ら演出し、価値をあげブランド化する事。
となり次に、これは具体的に【現代芸能】に当てはめると、どういう事を指すのだろうか?
検証し、考察してみたい。
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◆村上理論00--徹夜なんて努力のうちに入りません
「徹夜なんて努力のうちに入りません」-->【ムラカミ】理論では、あらゆる「芸」≪F1ドライバーなども含む≫をもって
プロとして売れる為の心構えとして、「覚悟」の重要性を指摘します。
【ムラカミ】理論に貫かれている「プロ意識の高さ」をよく現している言葉として
「徹夜なんて努力のうちに入りません」というフレーズがあり、
趣旨としては「芸」で食ってるヤツ≪絵画美術≫が徹夜程度を苦しいって
「お前は学生か?」と、そして
「一生懸命という幻想の中に慰めを見出している」と一刀両断です。
「芸」で食ってるプロであれば徹夜や一生懸命した事を価値基準に置くことをレベルの低い議論とし、完成しなければ完成するまで自分を追い込むは当たりまえで
「芸」における
地獄とは「寝ても覚めても出口も入り口もない捻れた空間」で答えが出るまで走り続ける挑戦である。とし
そのプロとして「芸」≪芸術≫で食う世界とは、
「ぎりぎりまでやらないと、ものが見えてこない世界」
「集中力と体力がきれたら、すぐに死ぬしかない世界」であり、
そして不可能に挑戦するために、その世界に突っ込んでいくのがプロ。と表現する【ムラカミ】理論。
コレ系の本が好きでヨク読んでいますが、ココまでストレートで表現し尚且つ口先だけでなく世界でキッチり結果をだしている【現代作家】は
【村上隆】さんぐらいなので、
≪具体的な名前は出しませんが、【現代作家】のコレ系のインタビュー記事を色々読むともう少し穏やか口調か、
または多く語らない、または、結果は出しているけどキャラ付けなのか言っている事がお花畑系、はたまた理想論を語るけど言うほど結果残してない。
っていう色々なタイプの作家の中でも【村上隆】さんは怒りとトゲトゲしいリアル感で特異。≫
一発勝負で見事に敗れ
地味に派遣ガテンで借金返済しながら人生を底辺でヌルく暮らしているオイちゃん達のようなリアル敗北者には【ムラカミ】理論がボディに効きます。
ので読み手を選ぶのも納得出来ます。≪御存知の通りアンチも非常に多い≫
しかし、
「芸」≪現代芸人含む≫で食っている人で結果を出せていない前向きな人には、
芸大の教授も絶対に教えてくれない「芸」で戦うとは如何なる事か?を剥き出しの言葉で語る【ムラカミ】理論は
リアルが見えてきて凄く為になると思います。
そして若くもなく黒歴史がある人の中には、
病気で余命が幾許も無く
死ぬ直前に親から「実は、お前は河から流れてきた桃から生まれたンだよ。」って病床で初めて聞かされる
鬼退治に行かずガテンな人生を歩んだ「桃太郎コント」の主人公な気分になれる人も多いと思います。ガクッ。
「返事がない。ただの屍のようだ。」
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◆村上理論01--現代の芸術作品は集団でやるべきだ
【ムラカミ】理論には、「芸」で身を立てて成功する術として、いくつもポイントが記されているのですが【現代芸能】に当てはまる大きなポイントを3つあげて考察したい。
「現代の芸術作品は集団でやるべきだ」-->
まず、【ムラカミ】理論では、芸術の世界≪現代美術≫を分解し記号化した時に工房的な集団力の重要性を指摘します。
≪後に優秀な画家も産んだ初期のレンブランド工房等における成功を意識しているのかもしれない。レンブランド工房だと一般読者にはわかりにくいのでイメージしやすいようにルーカスを引き合いに出しているが別の項で「光悦村」などにも言及しているので。≫
もちろん、あの隆盛を誇ったレンブランド工房でさえ後期は表面上の理想とは裏腹にガタガタと国情共に崩れ去り、遂には破産して在庫として残った作品も叩き売られてしまうわけで、
熱烈なファンの人には怒られそうですが常に強気な【村上隆】さんの「カイカイキキ」だって今後、どうなるかは誰にもわかりません。だけども【レンブランド】と共にレンブランド工房作品が世界に与えた名声は今なお輝き続けているわけで、
記号化した後の世界では、
「レンブランドの破産なんてのはドウでも良いホンの小さい事」である現実を鑑みると
芸術作品での集団力の重要性は証明されているとも言える。
この【ムラカミ】理論を【現代芸能】に援用し当てはめると「芸能事務所」での
集団による利点機能として「2点」あり
-
「マネジメント機能」-->ヒトツは「芸能事務所」が商品である『芸人』の販売や露出の管理などを芸人本人の代理として行う機能。
これは「業界の構造」である【電波媒体の露出度が販売単価】に直結するという【現代芸能】世界での仕組み上、
【現代芸人】が「芸能事務所」に入らず全ての処理を行う「フリー」という状態で売れ勝ちぬくことは不可能である事を指す。
- 「スタッフ機能」-->フタツは、芸能事務所」が商品である『芸人』の価値を高めていくフレームの構築という作業などを芸人本人のスタッフとして行う機能。
従来はマネージャーが「スタッフ機能」を兼ねることが多かったが
今後は益々、【現代芸人】の主戦場媒体が【電波】や【ネット】などミックスメディア化していくと現場が専門化していくので、
その戦場に対応した「スタッフ」の力が占める割合が増えることは確実。
音楽業界のサンプルのオケファイル如く、時代の流れを読みながら
ネタを『芸人』と共に練る「ライター」や、戦略に沿って企画を立案する「構成」や、各媒体に対応し現場指揮を行う「興行マネージメント」等
いかに優秀で質の高い「スタッフ」を集められるか?という事が「芸能事務所」の盛隆にも作用してくるハズ。
同じ口演芸でも
寄席≪割り≫や舞台≪出演料≫、営業≪発注≫を主戦場とする
落語や講談、浪曲など【古典演芸】では、基本フレームが業界の構造上「ルート営業」的であり
≪当然、例外な古典演芸人もいるが割合としてはごく僅かであり、評価もそこを重視しないようである≫、
活動の場がコンパクトなので≪TVなどの電波マス媒体が主戦場とならないので≫大きさのデメリットを感じない場合が多い為に「個人事務所」が比較的多いと推察出来る。
しかし、
鈴本など大衆寄席の出演が約束される組合に所属しない、又は徒弟制度上の師匠を持たない漫才やコントなど養成所からきた【現代芸人】は、そうはいかない。
【古典演芸】と違い業界の構造上【現代演芸】の主戦場は電波を主とする「マス媒体」である。
つまり、屋号を持たない継承芸でない格がない
【現代演芸】では業界の構造上
「電波等マス媒体での露出度が芸人の価値である販売単価を決定する」というルールで運営させている為に
個人規模では戦えない事を推察出来る。
≪現在、落語など上方の古典口演芸では真打制度はないが、ちゃんと香盤による格付けは明確に存在している。≫
従って、
【現代演芸】で売れる為には「芸能事務所」の所属は必要条件であり、その上で「集団の力」の質が重要視される
のであって、無所属フリーなのに【現代演芸】で大成功という現代芸人の例外を一生懸命さがしているのだが未だにホボ見当たらない理由もその構造にある。
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◆村上理論02--芸術家は技術よりも発想に力を注ぐべき
「芸術家は技術よりも、発想に力を注ぐべき」-->2つめの【ムラカミ】理論では「芸術家」が売れる為の方向性として、
「技術」よりも「発想」などの独自性の重要性を指摘します。
ただ、この文脈で読み違えそうなので再度書くと「絵の上手さを追求するよりも独自の作風にこそ意味がある」という趣旨の
【村上隆】さんが唱える
「追従者でなく革命家」というフレーズも絵の上手さのレべルは「日曜画家」程度の
事を言っているのではなくて、
一通り色んなインタビュー記事や書籍を読んでいると【村上隆】さんが言う、この「絵の上手さ」というのも、
ルネッサンスのお抱え宮廷画家のような職業模写レベルという、どうやら物凄い職人レベルの話をしているっぽいのです。
≪【村上隆】さんも
ボナールを使ってゴッホを批評して「絵の上手いよりも、ストリー性が重視される」など刺激的な言い回しをした時は、
流石にそういう世界をあまり知らない若年読者に勘違いがないように絵画的な力はある事が前提という高いレベルの事を話ているんだよ。
という注釈を言うときがたまにある。が、大抵はそういう「フリーザ対悟空」という前提を【村上隆】さんは省いて語る事が多いので他の批評家によく勘違いされるパターンが多い≫
別の喩えとして
「上手いギターリストになるな。自分の音を出せるギターリストを目指せ」という趣旨を語っていたりしていますが、
もちろんその上手い下手レベルはFは指で押さえるのが難しいとかいうレベルではないのだと思います。
【村上隆】さんの中では
プロなら「高いレベルで一定の技術や知識の基礎はあって当然」であり、
そんな当たり前の事をいちいち言わない。というスタンスのようなので注意が必要。
この【ムラカミ】理論を【現代芸能】に援用し当てはめると
「技術よりも発想」として「2点」のポイントがあり
-
「オリジナリティ重視」-->ヒトツは『芸人』が短期でなく長丁場で残るには「芸」のオリジナリティが必要。
人真似や単なるアレンジ「芸」であれば記憶から抜けるスピードが早い。
「あの芸は、あの芸人」というオリジナリティを持つと人の記憶と紐付けされ消えにくくなる。
【ムラカミ】理論では総して単なるアレンジについて「追従者は小銭を稼ぐ事はできるでしょうが、小銭は小銭です」と一刀両断です。
- 「ルールの理解と再解釈重視」-->フタツは、オリジナリティとは世界を知り、他の中での自分を知る事。
【ムラカミ】理論の中で中心となるのが「世界の記号化」であり、自分が戦う戦場のルールを完全に把握した上で勝つために自分をその戦場の中で
有利な位置に置き再解釈をする事を重要視しています。
Ph.D.の論文でもポジショニングマップなどを使って記号化から相対を現そうとする試みを行っている。
あと【ムラカミ】理論では「オリジナリティ」についても「スーパーオリジナル」「アレンジから新しく生まれるオリジナル」
と「単なるアレンジ≪リメイク≫」という
大きな3つの概念があり、
また
「単なるアレンジ」と「アレンジから新しく生まれるオリジナル」の差として「ルールの理解」と「再解釈」という
理論構成で違いを明確にしています。
≪【村上隆】さんのアンチが主に攻める部分がココなので、この部分の【ムラカミ】理論はガチっと固められてます。≫
論点だけだと少し分かりにくいので
細部については【現代芸能】に置き換えて具体的な例をあげて別エントリーで考察する。
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◆村上理論03--価値を生むのは才能よりサブタイトル
「価値を生むのは才能よりサブタイトル」-->3つめの【ムラカミ】理論では「芸術家」が売れる為の肝として、
「才能」よりも「サブタイトル」とストーリーの重要性を指摘します。
あくまでも「価値を生むのは才能よりサブタイトル」であり、この「メインの表題」でなく
「サブのタイトル」に注目するだけでなく種明かしした上で実践している部分が非常に失礼な言い方ですが
【村上隆】さんの本当の地頭≪じあたま≫の良さというか、
【村上隆】さんの「怖さ」なわけです。
だって、その「種」だけで食べている「現代作家」だっているわけです。
「凄い絵描きは賢い人間しか見るコトができない。」
という畏まったスギゾ・キッズ達の幻想や、その構図に群がる層を【ムラカミ】理論では
思いっきり
「おーーい、みんなーーー聞いてくれーーー、絵描きは裸だ!」って言っちゃうわけです。
「売れ」には「美術界における文脈の中でストリー性」が何よりも優先される。と
綺麗事でなくリアルを見せてしまうわけです。
そして【村上隆】さんは、そういった【ムラカミ】理論をもって世界で「売れ」て実証して見せたわけです。
もちろん、たまに美術館に出かけて彼女にインターネットで調べたウンチクを語るという役目がアートの唯一の役割である一般の人は
ソレ系の書籍などを読まないから、そういう
【村上隆】さんが「日本美術界の絵描きは裸だ!」というコノ界隈で起こしたファーストインパクト
の意味合いを知らないから、
従来の機構で食う人達の飯の種である
「サンタクロースはいる」という神話は現実として生き続けるわけですが、
先日、お亡くなりになられた華麗なる反日の大先生を頂点として戦前戦中と才能のあった日本国家国民のために命をかけて戦った戦争画家を次々とパージし続けた
綺麗な日本画壇ヒレラルキーに収まり、
そういう界隈の評論を恭しく読んでいた階層は「あははは。なんだかなぁ。」と色んな意味で起きてはいけないことが起きて「ガラガラポン」なわけですよ。
ただ、この界隈を考察していいてタマラなく
オモシロいのが、
こういうファーストインパクトを受けても、それをなかった事にして右から来た【村上隆】さんを左に受け流し過ごす層、
「サンタクロース」を殺した【村上隆】さんを殺人罪に問おうとする層、
ガラパゴスの素晴らしさだけを主張し始める層、本流はコチラだと言い出す層、なんかわからんけど【村上隆】さんがムカつく層、
とりあえずまだ様子見をしながら片足をかけて置く層、
旨みだけをいただこうとする層、全世界の共通事項のような美術批評していた評論家に怒る層、
【村上隆】さんの信者になる層、オイちゃんのようにニヤニヤ笑う層。
とかに分かれるわけです。
そうなんです。このインパクトは、
最近教授になられた【某多摩美先生】さん達が美術評論本でレンブラントの傑作であり代表作として『黄金の兜の男』を大絶賛しておられた
のがレンブラント自身の手で描かれていない事が近年、解明されて「あははは。なんだかなぁ。」とか感じた比じゃないわけです。
≪もちろん、【某多摩美先生】さんダケではないが解説がわかりやすいと当時もてはやされていたので、まぁ知らないとは思うけども。
レンブラント自身が手を入れていない工房作品であることが逆に工房の成功を証明しているとも言えるけど。後付だしね。≫
≪ちなみにレンブラント『黄金の兜の男』の色々な顛末については興味がある人は「弐代目・青い日記帳」さんの
「迷宮のレンブラント「黄金の兜の男」」が、この界隈のオモロをよく伝えられていますのでどうぞ。≫
この「価値を生むのは才能よりサブタイトル」という【ムラカミ】理論を成功で見せつけ、
あのバブルの時期にタケノコが如く現れ当時はモテハサレるも多くはバブル後に見事に沈んだ
具体的な名前は挙げないけども多くの「現代美術家」を横目で見ながら
紆余曲折有りながらも【村上隆】さんは今現在も【ムラカミ】理論と共に生き残り、爪痕を残し続けている現実。
ただね。ココでオイちゃんのようなこの界隈好きは
【ムラカミ】理論を使って自分なりに解釈した「スーパーフラット」に付いて語り批評しそうになるけども、
それは非常に読み手側から見ると如何にも感がダサイので≪コノ感覚もその界隈に興味のある人しか分かりにくいだろうけども≫ヤッちゃダメ。
なので本筋に戻して
-
「サイドストーリーを作る」-->ヒトツは『芸人』が短期でなく長丁場で残るには「紐付けした芸」を支える物語が必要。
いわゆるオリジナルを重視する上で、観客の記憶に強く印象を残しておくには、その紐付けされた「芸」にまつわる枝葉が
特徴付けられなくては効果が薄くエッジが立ちにくいと言う事。
経営学でいうところの「差別化」戦略では一方向だけではなく「チャネル」であったり「パッケージ」「マーケティング」とか
「間接・直接のサービス」「営業手法」などの複数で行わないと効果が定着しないのと同じ。
- 「文脈に入れ込む」-->フタツは、【現代芸能】の世界で「売れ」に入るには自己解釈し終えた「紐付けした芸」を業界でポジショニングし立ち位置を明確にする。
これは【ムラカミ】理論の中で特に何度も繰り返し述べられているのが「文脈に入れ込む」という作業であり、コレをしないから日本の芸術家は世界で負ける。と述べている部分。
自分が戦う【現代芸能】のルール上で、勝つために作った「サイドストーリー」が、「芸」に対し
どう言う意味合いを持っているかと言うのを明確に提示して「観客に鑑賞する理由や意味を提供する」作業。
この界隈の書籍などを読んで全体が掴めていないと何のことを言っているかわかんないと思いますが
オイちゃんのような一般的な美術好きから見て
【村上隆】さんという作家が他の「現代作家」と比べて凄いところは、
「えっ、そんな事いっちゃっていいの?」という
従来の日本人作家は、わかっていても口に出して言わないのだろうなぁ。
という作家も鑑賞者も互いに「心のなかでウヤムヤ」にしている部分を剥き出しの言葉で鑑賞者にぶつけ
≪例えば、そういう世界に全く興味がない人は知らない
日本では「号数単位売り」の理由だとか、カネを絵画で献金するときに溶かしやすかったから画商が政治に暗躍する
歴史的背景とか知っていても語られないことは多いわけで。≫
【村上隆】さんは、マスクマンよろしく「奇術」の種明かしをしたうえで
「じゃ、それを踏まえてムラカミのマジックを見よ!」と鑑賞者に再度
「手品」を見せつけ、
尚且つ成功させて、
種がわかっている鑑賞者も喜ばせているエンターテイメント性にあるような気がします。
この「種明かし」と「アレンジから新しく生まれるオリジナル」で日本の美術を再構築しようとしている【村上隆】さんの凄さは、
この界隈に全く興味のない人にはチンプンカンだとは思いますが。
結論として【村上隆】さんが目指している事を端的に現しているのが次のような言葉であると推察できます。
死後の評価が勝負ですよ。生きているうちはどうでもいい。岡本太郎だってそうでしょう。
(村上隆 : 『日本の顔』 :文藝春秋5月2004)
インタビュー記事や書籍などでも何度も
「現世とは自分の理論を試す場所であって勝負は死後」
と語る【村上隆】さん。
【北野武】師匠とお笑いや芸術について語った
「ツーアート」
でも絵画や演芸が共に「芸」で食うというよく似た構造である事をわかりやすい言葉回しで述べられている【村上隆】さん。
【村上隆】さんの言動を考察していると【北野武】師匠よりももっとシンクロ率が高い芸人さんがいる。
それは、トある芸人さんも若い時からラジオを聞いていたりインタビュー記事や書籍なんかを読むと
「現世とは自分の理論を試す場所」という趣旨の事を語っていたりする。
それは誰か?
その芸人さんは、
【島田紳助】師匠だ
また、それがどういう意味かという考証は、ハイヤングKYOTOやヤンタン木曜のヘビーリスナーであったオイちゃんが
【島田紳助】理論と【ムラカミ】理論のシンクロ率の高さを今度は
【現代芸能】側から解く
という別エントリーで考察したい。
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