2010_05_19_[WED]
シリーズ【現代芸能】ヨシモト芸人を作ろう!考察
ネットと電波媒体がクロスしてくる今日。
【現代芸能】を現象から見える『売れアルゴリズム』と『提供サイド側の思惑』を適当に考察する
シリーズ
【ヨシモト芸人を作ろう!】
-->コレまでの
「ヨシモト」関連エントリー
---01見出し---
◆「ヨシモト」スーツを着たテキ屋、興行師軍団
- ▼「小説吉本興業」幕開き
- ▼「ヨシモト」とは何なのか?
- ▼「ヨシモト」が持つ特質は?
- ▼「ヨシモト」資料や関連書籍で、
- ▼「ヨシモト」がナゼ漫才にこだわるか?
- ▼「ヨシモト」がナゼ芸人より上か?
- ▼「ヨシモト」幹部が社員に贈るイズム
- ▼「ヨシモト」幹部しか知らない謎の小箱
---02見出し---
◆「ヨシモト」創業と攻撃的経営史
- ▼「ヨシモト」創業前、上方では、
- ▼上方「桂派」VS「三友派」の争いは、
- ▼「ホリエモン」如し「岡田政太郎」参上。
- ▼「ヨシモト」創業、「反対派」と手を組む。
- ▼「ヨシモト」と二代目「岡田」の利権戦争。
- ▼「ヨシモト」初めての関西制覇。
- ▼「ヨシモト」創業の攻撃的経営手法
- ▼「ヨシモト」攻撃的経営史
- ▼漫才師の父「林正之助」と落語
- ▼「ヨシモト」物語を彩る「吉本せい」
---03見出し---
◆「ヨシモト」芸と政治
- ▼「ヨシモト」の2010年、政治案件パドリング?
- ▼「ヨシモト」の「ワッハ上方」と政治案件?
- ▼「ヨシモト」の屋台骨を折りかけた政治案件?
- ▼「辻阪」脱税疑獄関連を追った記事や
- ▼「神創り」太古から政治と芸能は切れない。
- ▼「世阿弥」は政治で生かされ政治で死ぬ。
---04見出し---
◆「ヨシモト」と闇勢力
- ▼「ヨシモト」とライオン興行師【林正之助】
- ▼「ヨシモト」と浪曲師【広沢虎造】「ツブシ」案件?
- ▼今と違い興行師は興行師であった時代。
- ▼この【広沢虎造】案件での切った張ったは、
- ▼喧嘩上等!【桂春団治】を監禁せよ
- ▼「浪曲」や「落語」と違い【講談】という
- ▼「山春」のように興行師とは違う
- ▼興行とは「顔」で行い体を張る稼業だ。
- ▼現在は興行にも「業界コンプライアンス」が
-----------------------
◆「ヨシモト」創業期と攻撃的経営史
▼
「ヨシモト」創業前、上方では、
東京と同じく落語が演芸界のメインでした。
まだ「ヨシモト」が産声を上げる前、
名人と呼ばれていた初代「桂文枝」≪桂文治が東京なので上方では止め名≫が在りし頃、
2代目「桂文都」、初代「桂文三」、初代「桂文之助」、初代「桂文團治」が「四天王」と呼ばれていた弟子たちがおりましたが
1874年(明治7年)
初代「桂文枝」死亡の知らせが届くと、
その「四天王」のウチ弟子であった

初代「桂文三」と

2代目「桂文都」の間で
総領をめぐる跡目相続争いが起き
分裂を開始します。
結局は、巷で人気のあった
弟弟子の「桂文三」が2代目「桂文枝」≪のち、桂文左衛門≫を襲名
【桂派】総領となった事で
≪ドロドロの争いになってしまった理由の一つとして「桂文都」の妻が、
「桂文三」の妻の母という姻戚関係だった事がノチにも強く遺恨が残ったと言われている。≫
1893年(明治26)
敗れた
2代目「桂文都」は桂一門を去り、亭号を改め「月亭文都」と名乗り
【三友派】
を立ち上げます。
【三友派】には、
3代目「笑福亭松鶴」、初代「笑福亭福松」、2代目「桂文團治」≪後の7代目「桂文治」≫らが参画する。
▼
上方「桂派」VS「三友派」の争いは、
次第に決着が付き始め、
「桂派」は、固い落語を主眼に置いたため人気が衰え劣勢となり、
≪こういった歴史の盛衰の流れも、後の「ヨシモト」に爆笑路線を取らせることになる≫
1906年(明治39年)
三友派の世話役だった堀江「賑江亭」席亭の藤原重助の死後に三友派に実質的に吸収される。
「三友派」≪浪花三友派≫は、観客を意識した滑稽噺や住吉公園で大運動会を行うなどの宣伝活動もウケて
「三友派」は人気で大きく勝ち上がり、のちに「桂派」を吸収する。
その他にも
「娯楽派」など第一、二、三、四文藝館を根城にいていた諸派なども生まれるが三友、桂両派に潰されている。
時代背景的には「娯楽派」の「第二文藝館」を1912年に吉本泰三・せい夫妻の【吉本興業】が買取り、
後に「ヨシモト」の【花月派】が攻撃的経営の末、1922年(大正11年)「三友派」を懐柔し「ヨシモト」主導で統一を果たすが
まだ今は「ヨシモト」怒とうの関西圏制覇が始まる前である。
▼
「ホリエモン」如し「岡田政太郎」参上。
時代は、
「ヨシモト」が「第二文藝館」の運営を始める2年ほど前、
1910年(明治43年)
3代目「桂文枝」が鬼籍に入り
それまでも斜陽していた「桂派」は完全に勢いが無くなり、
上方落語界にも転機が訪れる。
そのしばらくの芸界の間隙を逃さなかった
「岡田政太郎」が率いる「反対派」≪浪花落語反対派≫
の登場である。
関連書籍によると、「岡田政太郎」は大阪の玉造で風呂屋を営んでいたが
≪
それで「風呂政」や、地黒の肌であったので「クロ政」などと言われる≫株の取引で大儲けし、
芸や芸人に対する愛着ではなく金儲けの手段として演芸界に、その潤沢な資金を使って参入してくる。
「岡田政太郎」は演芸界の古参達に対しても
「理屈や伝統はいらん。噺の上手、ヘタも関係ない。演芸みたいなもん、楽しましてくれたらそれでエエ。客にとっては安い値段で見られ、無条件にオモロイもんが最高なんや。」
と、ぶちかましたものだから当時の演芸界からどういう目で見られていたかは想像に苦しくない。
≪
まさにライブドアの創業者が見かけから「ホリエモン」と呼ばれたり、特に野球が好きでもないのに金儲けのツールとして
近鉄バッファーローズを買収しようとした姿にそっくりだ。≫
「岡田政太郎」は【岡田興業部】という会社で大阪上本町にあった「富貴席」基幹寄席として初期は
【岡田興業部】の事業戦略
- イロモノ芸人中心≪オモロければ芸域や巧拙は不問とした。当初はウダツの上がらない落ち武者や、旅回り芸人で構成されていた。≫
- 木戸銭を5銭以下≪通常の寄席は15銭ほどなのに1銭程度の寄席もあったようだ≫
- 多店舗展開≪グロスで儲ける手法を編み出す。≫
- 芸人を借金漬け≪月に一度、芸人に金を貸す日を作り、その借金をカタに自分の運営する多くの小屋に安い割で働く芸人を多く確保する。≫
という当時では『革新的手法』で次々と「桂派」はもとより「三友」両派を撃沈していき、最終的には大真打や売れっ子なども「反対派」の寄席に出るようになったようだ。
合理主義者であった
「岡田政太郎」は、
芸人を差配する【太夫元】であるのに「富貴席」など多くの寄席を運営する席主であったりといった手法が、
後に「反対派」と手を組む「ヨシモト」に大きな影響を与える。
▼
「ヨシモト」創業、「反対派」と手を組む。
1912年(明治45)≪7月30日から大正元年≫
「ヨシモト」は
三流の小屋であった『第二文藝館』を吉本泰三・せい夫妻が買取り、
五銭というディスカウント料金を目玉にして新装開店するにあたって
芸人の調達を、安い給金で賄うために「ヨシモト」は、「岡田政太郎」の【反対派】≪浪速反対派≫と手を組む。
全く何を掛けてもダメだった端席の『第二文藝館』が「ヨシモト」の戦術があたり満員御礼が続く。
1914年(大正3)、≪7月28日に第一次大戦が始まる≫
「ヨシモト」は勢いにませて松島の『薦辺館』、福島の『龍寅館』、梅田の『松井席』、天神橋筋五丁目の『都座』
と次々端席小屋の買収をすすめる。
1917年(大正6)、≪3月12日にロシア革命≫
「林正之助」が200円の給金≪当時の公務員の給料が70円程度の頃≫で【吉本興行部】に「総監督」
≪つまり、なんでもやらされると言うこと。≫として入社。
関連書籍に拠れば、
実際に1日の休みもとらずに下足番から芸人の面倒までありとあらゆる業務をこなし自転車で劇場を毎日毎日走りまわっていたようだ
この頃から、「ヨシモト」の力も付いてきて反対派は【岡田・吉本反対派】とも呼ばれ始めて
【三友派】と肩を並べる勢力となる。
【反対派】の戦術であった
木戸銭の「ディスカウント」とイロモノ芸人への「特化」が当たり続けて
【寓歳】の人気も上がってくる。
1918年(大正7)、≪11月11日に第1次世界大戦がドイツと連合国が休戦協定に調印して終結。7月米騒動≫
「ヨシモト」は遂に端席でなく南地法善寺裏≪現在の法善寺横町≫の
『金澤亭』という【桂派】の牙城であった
寄席を買収する。【桂派】が【反対派】に落とされる。
この買収後に、
金沢亭を『南地花月』、薦辺館を『松島花月』、龍寅館を『福島花月』、都座を『天神橋花月』とし
「花と咲くか、月と陰るか」 で有名な「ヨシモト」劇場屋号名【花月】ブランドに統一され、
「ヨシモト」を単独で指す場合に【花月派】と称されることも多くなっていく。
1919年(大正8)、≪6月28日にヴェルサイユ条約≫
「ヨシモト」【反対派】は【三友派】代表寄席の北新地にあった「永楽館」も落として『花月倶楽部』と改称する。
▼
「ヨシモト」と二代目「岡田」の利権戦争。
1920年(大正9)、
≪3月15日戦後恐慌。株式、米、綿糸、生糸各市場が大暴落。 11月2日にアメリカで世界最初のラジオ放送始まる。 ≫
「ヨシモト」【反対派】は【三友派】の3代目「桂文團治」、3代目「桂米團治」、2代目「桂三木助」、2代目「桂小文枝」ら大物を移籍させ
上方の演芸界をほぼ手中におさめる。
その年の12月7日、
「ヨシモト」と組んでいた【反対派】の首領『岡田政太郎』が急逝≪享年53歳、死因は現在も不明≫、
「ヨシモト」にとって千載一遇のチャンスがおとずれる。
「ヨシモト」は、スグに動き
「ヨシモト」は『岡田政太郎』の息子で二代目を継ぐ『岡田政雄』に対しては、今まで通りの「岡田・吉本連合」で行きましょう。と動揺が起こらぬように
関係を確認したのち、
関西から逃がしていた初代【桂春団治】を借金を精算し契約金2万円に月給700円という条件で呼び戻す手はずを整える。
【岡田派】の戦争に備え着々と準備を整える。
1921年(大正10)、
≪7月29日ヒトラーがナチス党首。11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺される。 アインシュタインが物理学でノーベル賞。 ≫
「ヨシモト」は遂に上方噺家の大物【桂春団治】を正月興行で『南地花月』の舞台にあげることに成功する。
「ヨシモト」は、【岡田興業部】から「ヨシモト」に派遣されていた『岡田政太郎』の腹心だった「青山督」や「瀧野寿吉」等をコチラ側に引き入れ、
その年に二代目の『岡田政雄』に【反対派】の権利関係を1万円で売るように迫る。
『岡田政雄』は渋々従い1万の小切手を受け取る。
1922年(大正11)、
≪ワシントン会議で海軍軍縮条約に調印。7月15日、日本共産党が極秘で結成。 アインシュタインが来日。≫
その年のはじめ、
「ヨシモト」は、【反対派】の全権を渡さない【岡田興業部】の『岡田政太郎』に【最後通牒】を突きつけ、
その後は間髪あけず敵とみなし攻撃を開始し
反対派の全権をめぐる
『岡田興業部』VS『吉本興業部』の覇権戦争が始まる。
その年の2月、
まず「ヨシモト」は『岡田政太郎』に渡した小切手を不渡りにする。
次に
「ヨシモト」は【岡田興業部】の芸人たちに根回しを行い『岡田政太郎』に対して【十か条の要求】を突きつけさせて、
その後にストライキに入るよう手はずを整え岡田達の小屋に穴を開けさせ大打撃を与える事に成功する。
「ヨシモト」は【岡田興業部】に所属していた大半の芸人達を確保し
【吉本花月連】を立ち上げる。
瀕死になるも『岡田政太郎』は、
残党達で
【元祖反対派】と名乗り「ヨシモト」に対抗する。
「ヨシモト」は尚も攻撃を緩める事なく『岡田政太郎』を孤立させ、
その年の6月頃、
「ヨシモト」の完全勝利で終了し、
「ヨシモト」は当初の所属芸人等のマネジメント権だけでなく、
【岡田興業部】が差配していた『富貴亭』など寄席なども全移譲させ【反対派】の全てを吸収する。
▼
「ヨシモト」初めての関西制覇。
【岡田興業部】との戦争を勝利で終えた
1922年の8月
「ヨシモト」は遂に【三友派】の牙城、法善寺の
『紅梅亭』を落とす。それに続き『新町瓢亭』『福島延命亭』、
京都新京極の『芦辺館』『神戸千代廼館』等々の経営権を取っていく。
そして、上方の2代目「桂文枝」襲名騒動から始まった【桂派】【三友派】【反対派】が覇権を争った三国時代は、
「ヨシモト」が【桂派】≪金澤亭≫を落とし
「ヨシモト」が【反対派】≪岡田派≫を飲み込み、
「ヨシモト」が【三友派】≪紅梅亭≫を懐柔し
「ヨシモト」主導のもと
【花月連三友派合同連名】という統一組織の完成として終結する。
「ヨシモト」の直営、提携演芸場は大阪18、堺1、京都5、神戸1、三宮1、名古屋1、 関東2。
「ヨシモト」の所属芸人は、落語73名、色ピン芸14人、それ以外が16組、萬歳が4組。関東は「東京交代連」として8組
上方演芸は
事実上、「ヨシモト」抜きでは回らない世界になる。
創業から10年
「ヨシモト」は【攻撃的経営】で実質的な最初の関西演芸界制覇≪関西の完全制覇ではない。≫という偉業を成し遂げる。
もちろん、攻撃的な「ヨシモト」は同時期、日本という国家が強兵で近代化と国富を目指したと同じく
「ヨシモト」は、興行という世界の表裏で攻撃性を増しながら「関西の完全制覇」と「東京の制覇」、最終的には「全国完全制覇」を目指して戦前の日本に突っ込んでいく。
吉本泰三≪吉兵衛≫死去の2年ほど前である
≪1924年2月13日、享年37歳≫
▼
「ヨシモト」創業の攻撃的経営手法
【岡田興業部】から迎入れた青山などに影響を受けながら既存の手法とは違う戦略を「ヨシモト」は生み出し、システム化していき、
それが他店舗化運営の基礎となっていく。
そもそもの始まりが創業者の「吉本せい」が三流の小屋≪端席≫であった「第二文芸館」の買収からで
【吉本興業部】の「第二文芸館」事業戦略
- 安いイロモノ芸人≪落語と比べて≫
を多く配置し≪色が17人、落語を4人≫
- デモノは享楽中心≪格式と逆方向≫
で民衆の趣向に合わせていく≪剣舞、モノマネ、曲芸、女講談、琵琶、怪力、義太夫、音曲、新内、軽口、女道楽など≫
- 木戸銭を5銭≪他の寄席はだいたい15銭ほど≫
という格安料金。薄利多売でグロスで売る
- 下足代を2銭≪他の寄席は原則とらない。≫
木戸銭とは別に取った。本当は7銭払わないと見れないが木戸銭の額だけを大きく宣伝に使う。
「花のれん」等でも見られる様々なアイデアを「吉本せい」らが運営のノウハウとして確立していく。
といった『格安料金』と『運営』の差別化を行い
観客に見せるという今日へと続く「吉本商法」を次々編み出し、
遂には
戦前、東西で何十という劇場を抱えた日本屈指の大興行会社まで上り詰める。
▼
「ヨシモト」攻撃的経営史
世界恐慌がきた1929年の翌年、
1930年に「ヨシモト」は、萬歳小屋『南陽館』≪千日前の集寄亭という落語寄席を改称≫で十銭萬歳≪今の300~400円ぐらい≫興行をスタートさせる。
今のBaseよしもと、東京のルミネに繋がるコンセプトで新人の顔見せ小屋として当時の世相にも歌われるほど話題になる。
「
とりあえずやってみてあかんかったらやめたらエエやん」という
その
攻撃的経営DNAは脈々と受け継がれる。
戦後
興行師軍団「ヨシモト」は文字通り、
興行屋として壊滅寸前まで追い込まれる。
戦前、
本拠地の大阪では初代【通天閣】まで手に入れ、創業者の『吉本せい』は勲章まで賜り、
関東でも勢力を大きく伸ばし、
オモテの『吉本せい』とウラの『林正之助』というコンビで
関東圏の制覇まで手が届きそうな、あと一歩というところで
敗戦で劇場なども国情と同じく
『国破れて山河あり』状態となり
あの栄華を誇った「大ヨシモト」に所属芸人が1人だけ。
という、あまりにも大きかった『林正之助』氏を中心とする大阪「ヨシモト」幹部の喪失感から
戦後「ヨシモト」の
「芸人回しの興行師」というDNAに刻まれる興行屋としての再出発は
ライバルであった「松竹」に遅れる事となる。
復活
しかし、アクセルを再び踏み出した興行師軍団、新生「ヨシモト」は、再び戦前の【攻撃的経営DNA】が蘇り、
新しい『電波媒体』であった【TV】というモノと組み演芸界で再度の【関西圏制覇】に向けて空爆で復活の狼煙を上げていく。
≪インタビューで
「ヨシモト」の幹部は「劇場」を城や基地と呼び業務を『地上戦』、「放送媒体」のTVを飛行部隊、絨毯爆撃、『空爆装置』等と形容する事が多い。
今も昔も「ヨシモト」幹部は経営に戦闘用語を多用する。≫
『電波媒体』時代の創世記には、ラジオでの集客ツールとの特性をつかみ、
≪
春団治の事件で負けると見るや、手のひら返しで自分達に取り込んでいく。まさしくコレが「ヨシモト」≫
今でも密接に絡んでいる関西ローカル某放送局に対して中継の独占契約を結び「ヨシモト」発展に大きく寄与させ、
戦後、「松竹」に大きく引き離されていた関西における演芸界の主導権、支配権を奪還スべく新型兵器であった【TV演芸】を活用し、
新生「ヨシモト」は猛追していく。
【吉本興業】の主な事業戦術
- 「仕出しユニット」
≪現在の【バータ売り】のはしり≫
主役の他に
通行人を含めた端役など所属の芸人を出し、全体の出演料をアップさせると共に露出をあげて売っていく
と言われる手法を『てなもんや三度笠』等であみだし使っていく。
- 「ユニット制作」
≪現在の【完パケ】シロ送り状態での売り≫
芸人だけでなく企画と台本、演出、進行といった『ソフト』に、
スタジオ、大道具や小道具などのセット、カメラなどの
『ハード』もすべて「ヨシモト」が一社で供給独占し中間マージも抜く
手法を『ヤングおーおー』等であみだし使っていく。
MBSとの共同で「アイ・ティ・エス」を設立する≪1973年、昭和48≫
- 「コンテンツ・パッケージ」
≪現在ではDVDに見られる≫
それまでの販売経路であった
放送媒体を使わずネットなどの新チャネルでの流通を積極的に展開し、最終的には川上から流通まで
自分たちで整えて販売しようとしている
「夕刊」に「漫画」等の発行、海外「音楽版権」事業等々豪快なるストライクアウト、三振失敗も多いが
本気で振ってくるので一発「ホームラン」も放り込む攻撃的経営こそが「ヨシモト」イズムで
「
とりあえずやってみてあかんかったらやめたらエエやん」
なので
『ヨシモト』は潰すことを恐れない強さがある。
で、とにかく「スクラップ」と「ビルド」のスピードが高速だ。
奪取
戦後、長らく「松竹」の後塵を拝していた新生「ヨシモト」は、【TV演芸】という近代兵器を最大限利用した攻撃的経営により
1970年の後半には、再び関西圏における演芸界の盟主の座を奪還することに成功する。
▼
漫才師の父「林正之助」と落語
「ヨシモト」という会社は興行屋であったため、口演芸の『浪曲』『落語』『講談』というモノの他にも歌劇団やレビュー、ミュージカルなど時代と常に寝る体質であるために、
その時代の流行り廃りでありとあらゆるモノに関わっており、映画史は当たり前として野球やプロレス、ボーリング等の歴史にさえ「ヨシモト」は顔を出す。
それが「ヨシモト」であり、
これからもそうだろうから考察するには非常にオモロだ。
当然、演芸界にそれだけの支配力を持っていたのだからオモテに出てくる≪もちろん裏側にも出てくる≫大正からの戦前・戦後にかけて活躍する有名な演芸人の歴史を紐解くと
必ず何処かで「ヨシモト」関連が出てくるのがオモロだ。
それは関西だけではなく、
関東大震災をさかいに多くの関東の大物落語家とも「ヨシモト」は深く関係を持ち、
日本の芸史にも東西大物噺家と「ヨシモト」の交わりが深くしんこうしていく。
「落語芸術協会」の設立に漫才の「ヨシモト」が絡んでいる事は、
この界隈好きであれば誰もが知っている有名なことだが、
長くなるので詳細は
Wikiにあるような経緯だが、
それ以外にもチョとした落語にまつわるエピソードとして
「ヨシモト」イコール『漫才』という爆笑イロモノ芸で、この世界を制覇した「ヨシモト」なのだが
様々な関連本を読むと、
「大阪の落語を滅ぼしたのは私です。」
と自身が語るように新しい庶民目線の笑いを好んだ「林正之助」さんは、安来節のプロデュースで自信をつけ端芸で地位の低くかった
萬歳をベースに庶民受けするよう改良を重ね
コンビ結成から
「エンタツ・アチャコ」を今でいうイメージ戦略までプロデュースし作り上げ、彼らの成功を皮切りに『大阪イコール漫才』という風土を作り上げた。
そう「林正之助」とは、
上方の『落語』を破壊することで
『漫才』を創造した人
と言えるとおもう。
≪オイちゃんは、その見解を取る。≫
『漫才』が
現在の現代芸能メインストリームの地位となる基礎を作った
本当の意味で『漫才師の父』であり、
『TV演芸』という放送媒体に素早くアタックしていった『八田竹男』氏や文芸部で萬歳を漫才として変革していった
『橋本鐵彦』氏なども貢献者であるが必要条件であり『漫才師の父』は、絶対条件の「林正之助」さんである。
最後まで杖を突きながらも自らが命を削るような切った張ったで芸人を確保し儲けた銭で建てた
劇場に足を運び『漫才師』を見つめ、小屋の客入れを見守った本物の『興行師』であった。
ただ、「林正之助」さんと落語との関係で、
間違ってはいけないのが「林正之助」さんは、
落語がキライで漫才偏重になったのではなく
「ヨシモト」が勝つために『漫才』を選択した
手段としての『漫才』
という事だ。
現在まで「ヨシモト」には多くの落語家が所属しているし
全ての芸人を呼び捨てであった「林正之助」氏も、
戦後の「ヨシモト」全国区への爆進力で吉本御三家と呼ばれた
『笑福亭仁鶴』師、『やすし・きよし』師、『桂三枝』師のうち
特に噺家『笑福亭仁鶴』師に関しては最大の敬意を表し
「うちの一番の貢献者です」「大事にしなアカン芸人です。」
と誰憚らず答えている。
何よりも、「林正之助」さんの関連書籍を読めば、ヒトツの【芸】に溺れるセンチメンタリズムとは真逆にある本物の『興行師』であった事は
今更書くことも無い。
「林正之助」氏とは『興行師』として生き『興行師』として死んでいったビジネスマンであった。
と言うことだ。
▼
「ヨシモト」物語を彩る「吉本せい」
『興行師』というビジネスマンの姿勢を貫いた晩年の「林正之助」さんとは対照的に
創業者の「吉本せい」さんは、当時から斜陽していく上方落語にあって一部の噺家を経営者とは、
また別の顔で可愛がったようで、
「ヨシモト」は
給金を以前は社長であった「林正之助」さんが手渡ししていたそうなのだが≪現在は振込み≫
「春団治」だけは「吉本せい」さんが経営に参加していた時期には彼女自身が渡していたそうだ。
あの時代にあって
女の細腕で立身出世した『女太閤、吉本せい』
日本一の興行会社を作り上げた『女興行師』という記号がつけられた中、
多くの噺家達との交流については虚実とりまぜ関連書籍に多く書かれ、映像にもなり、
彼女が見せる多くの側面である、
「ヨシモト」という興行ビジネスを大成功に収めた興行師、
多くの寄進を行った篤志家、
溺愛した我が子【穎右】と歌手の【笠置シヅ子】さんとの恋愛を絶対に認めず、若くして亡くなった
息子の子【エイ子】も許すことなく、息子の死後、しばらくして死んでいく。
今思えば、それは
現代のロミオとジュリエット
「ヨシモト」という大興行会社の創業本家御曹司という宿命を背負った跡取りの
興行師としてでなく、ある意味真逆である
愛に生き、そして死んだ≪結核≫【花森英介】が「ヨシモト」のサイドストーリとして成立した瞬間でもあった。
女傑『吉本せい』の生い立ちや、わが子を次々と失っていき若くして未亡人となった家庭的な不幸とのコンストラストが
余計に
創業期から「ヨシモト」を作りあげていくビジネスマンとして冷徹な目を持つ【林正之助】氏と、
女としての情念を完全に脱ぎ捨てる事ができなかった【吉本せい】氏という
二人の姉弟『興行師』が持つ人間の性≪サガ≫による毛色の違いとして際立たせて
社史には載らない様々なサイドストーリーが
止まらない100年企業「ヨシモト」物語に深みを与えている。
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