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2007-07-16

Are you the believer of Shintoism?

2007_07_16
神道の信者かどうか

私は英語の神道についてのメーリングリストに参加するが、先日「なぜ神道の信者ですか」という一般的な質問があった。それを弾みとして、考えて来た、なぜというより、信者かどうかという質問について。

先ず、実践のみを考えたら、微妙ではない。神道の信者とはいえ、熱心だ。氏神様へのお参りは、週に一回以上だし、家で神棚を設けてほぼ毎日拝めるし、神道の講座を受けるし、それにユデタマゴのために神道の儀式を執り行われてもらう。

≪略≫

一番深い問題は、神様の存在だ。

本居宣長の定義に従えば、もちろん神様の存在を信じる。その定義によって、山とか滝などは神様だが、富士山の存在は全然疑わしくないので、神様があると信じる。だが、

だが、「神様がある」だ。「神様がいる」ではない。

誤解を防ぐために、例えよう。神さまに対しての知的な態度は、火星の生き物に対しての態度と同じだ。存在すると信じないが、存在はありえないとも信じない。火星には生物がいるというための証拠はないことだ。そして、生物がいるとしても、少なくともSFなどで描かれた生物に似ないはずだ。緑色の皮膚の宇宙人が火星にいないと信じる。火星の生物を発見したら、想像できない形があると思う。

神様も同じだ。証拠の上、信じないが、ありえないとも信じない。ただ、存在すれば、神話の神様に似ないと思う。神話の神様は、素朴で人間に準えた絵画だ。それはいないと信じる。

だから、神道の信者なのは、言い難いのだ。信じない人は、信者とは呼べないだろう。

(引用元『チャート・デイビッドのブログ』 : 2007-07-13)


日本における神の存在認識。 物凄くわかりやすい指摘だ。ちょっと笑ってしまった。 日本における神の存在のあいまいさ。専門家は【ゆれ】などと表現しているが吃驚するぐらい踏みシロが大きい。 そして、日本人でも殆ど気づかない≪自分もそういった書籍を読んで初めてそういう観点を理解した≫この事を外国人のチャートさんが本当に数年の日本滞在期間で聴講講座生として少しぐらい聞いた程度で、自分の体から導き出し、理路整然と日本語で書いている事実の方が神の存在よりも驚愕に値するよ。

と思ってプロフィールや英語の方の文章を詳しく見ていたら哲学の先生だった。それも、Ars Magicaのライン・ディベロでライターって・・・。概念構築のプロ中のプロやんか。驚いて損した。ブログは英語の方も日本語の方も日本がらみの部分を読むと『そういうところでひっかかるのか。なるほど。』と新鮮で面白い。

話を戻して、実はこういう神道と他の一神教の概念を基にした比較議論は結構書籍が出ている。 何冊か読んだことがあるが自分は著者が持論のために推測を事実のように捏ね繰り回す固めの本よりも 周辺知識があれば対談モノの方が面白いと思った。

というか名前は挙げないけど日本で有名な倫理学者の書籍ほど面白みにかけるのは何故? よくここまでつまらなくできるなぁと、図書館で昔つぶやいた記憶が鮮明にある。 自分が刑事犯の量刑を決められるなら万引き犯には、 規範倫理学書の読書120冊の刑≪レポート付≫ とか処してこの世の地獄をみせてやろうと思う。

さて、凡ての迦微(かみ)とは、古(いにしえ)の御典等(みふみども)に見えたる、天知の諸の神たちを始めて、 其れを祀れる社に坐ます御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい、海山など、其余(そのほか)何にまれ、 尋常(よのつね)ならずすぐれたるとくのありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云うなり。

(『古事記伝』 : 本居宣長)


面白い事なのだが、古事記や日本書紀などの神話の時代から 日本には【絶対神】が存在しない。 神の神も神に訊くのである。 そしてその神さえもおそらく何らかの神にゆだねるのだ。神様が吉凶を占いに託すという その曖昧さが何でも飲み込む日本の文化へ反映する。

日本の神について比較論として語られているものの中で、 【バベルの謎】の『長谷川三千子』女史と 【国民の歴史】の『西尾幹二』氏が共著した 【あなたも今日から日本人】という書籍も 神の神も神に訊くという切込みから國の体(てい)を解き明かそうとする。どちらも保守の有名な論陣なのでズバっと気持ちが良い。



絶対神を頂かない日本は上に神ではなく土台に神を持つ。

なので神棚の横に仏壇があり、 12月にはクリスマス・ツリーをなんら疑う事無く飾り付けるのだ。 皇后美智子様は嫁がれるまでカトリックだったのは沢山の書籍にあるとうりだ。 そこにこそ、日本本来が持つ寛容さ、緩やかな幅を生み、平和を包み込む優しさが存在する。 と所謂、神道マルチタスクOS論に解釈するのが自分のように、Nonchurch主義のキリスト教信者が日本で幸せになる方法だ。

ただ、進化論を否定してキリストの復活を認めるのが科学的でない。 と宗教に科学を求めるのは人間が持っているはずのハートを見せろ! と科学信奉者に言ったら心臓を取り出してみせるコントと変わらない。と思うのだけど それを書き出したら長くなるので辞めておこう。

話を戻して神道の持つその曖昧さや日本のユレ感覚がわからないと、 維新以降の宮廷行事をあげて司祭としての形が明治以降に作られた矛盾を口に出してしまったり、 日本の先祖神、【神道】の司祭である天皇が譲位後に上皇となり、 出家した上皇が仏教上の法皇となる意味が読み込めない。

日本人の自分にとっては神道を信仰するするか? という問いは狭義の神道宗派を信仰するか? と同一語だ。 それならNOだ。しかし、僕には神道の精神が体と心の土台にある。 これはキリスト教のように神道が各宗派によって様々な考え方や実践方法が違うことを知らない日本に住んでいない 外国人には何のことを言っているのか理解できないかもしれない。

だが広義の神道にとって、「神様がある」だ。「神様がいる」ではない。 ようするに広義の神道にとっての神様の正体は自然崇拝など日本古代アニミズム、精神土台であり、 いわゆる西洋型の絶対神でなく支配する天上にないから

自分のようにキリストを信じ、神道を尊ぶ。

という精神構造が上手く働けるのだ。神道は本当に凄い!!